Loading

ニュースの中の数値を扱うためのヒント

  • データを扱うために一番重要な事は、楽しむということだ。データは近寄りがたいものに見えるかもしれない。しかし、データを恐れていては何もできなくなってしまう。何か楽しむもの、調べがいのあるものとして扱えば、データはいとも簡単にその秘密とストーリーを示してくれる。だから、データを他の証拠と同じように簡単に、公平に扱えば良い。とりわけ、データを扱うことをイマジネーションの練習だと思うと良い。つまり、あるデータと整合し、より説明のつく異なるストーリーをいくつも模索し、より多くの証拠とつきあわせてみるのだ。"もっと他にこのデータを説明できるストーリーはないだろうか?"と考えてみることは、この数値、この明白に大きなあるいは悪い数値、これやあれやの明白な証拠が、実はそうしたものではないかもしれないだろうことに思い至ることを促す。

  • 疑り深くある事とシニカルである事を混同してはいけない。懐疑的であることは良いことだ。シニカルとは、あきらめてやめてしまうことを指す。もしあなたがデータジャーナリズムを信じるなら(この本を読んでいるのだからたぶんそうだと思うが)データは、嘘やいまいましい風刺画や斜に構えたヘッドラインより遙かに優れたものを持っていると信じなくてはいけない。データは、注意深く用いる限りにおいて、しばしば私たちに深い見識を与えてくれる。私たちはシニカルになってもいけないし、物事を鵜呑みにしてもいけない。注意深くならねばならないのだ。

  • もし私が不況の時に飲酒の量が増えると言ったら、あなたはそれはみんなが落ち込んでいるからだと答えるだろう。もし私が飲酒の量が減ると言ったら、あなたはみんなが破産してしまったからだと言うだろう。言い換えれば、データが伝えることはあなたが考える解釈に影響を与えない。すなわち、物事はどちらにせよ悲惨なのだ。もし飲酒の量がふえるなら、それは悪いことだ。もし減るなら、それも悪いことだ。ここでの要点は、もしあなたがデータを信じるなら、あなたが自分のムードや信念や期待にとらわれる前に、データ自身に語らせるべきだということだ。周りを見回してみるだけで、事前に抱いた見込みを裏付けてくれるようなデータを見つけることはたやすいだろう。言い換えれば、データ・ジャーナリズムは、少なくとも私にとっては、あなたが何事をも受け入れるよう心を開いていない限り、ほとんど価値を生み出すことはできない。数字に基づいたからといって客観的にはなれず、客観的になろうと努力した分だけしか客観的にはなれない。

  • 不確実性は問題ではない。我々は数値を権威と確実性に結びつけて考える。しかし、しばしばそれは成り立たない、つまり、答えがないという答えが待っていることもある。あるいは、その答えが我々にできる最善のものだとしてもなお、それが正確とは程遠いものであることがあり得るのだ。私は、我々がそうしたことを伝えるべきだと思う。もしそれがストーリーを殺してしまうというなら、私はそれは新しい質問を生み出すためのすばらしい方法だと言うだろう。同様に、データの正しい切り口はいくつもある。数値が真か偽かの二択である必要はないのだ。

  • 調査とは物語である。つまり、ひとかけらの証拠から他の証拠へと突き進みながら、どうやってものごとを見つけだそうとしたかの物語が素晴らしいジャーナリズムを生む。この事はデータから証拠を掘り起こす際にもあてはまる。一つの数字からは何も見えてこないのだ。異なる情報ソースは新しい観点や新しいアイデア、そしてより豊かな理解をもたらす。我々が、権威的でありたい、人々に答えを与えたいという欲求にあまりに固執すると、調査過程を見せないことでチャンスを逃すことになるのではないだろうか。

  • 一番の質問は、昔からあるものだ。これは本当に大きな数字なのか?この数値はどこから来たのか?あなたは、あなたが思っているこの数値の意義が正しいと確信できるか?こうした質問は、データの周りについて考えるきっかけになる。一つの数値を眺めることでは見えてこない周縁、現実の世界の複雑さ、広い範囲で時を超えて比較されうるもの、属するグループ、地理的な近接性 -つまりコンテキストについてだ。

Michael Blastland, フリーランスのジャーナリスト